思春期と暴力

昨年12月のバルセロナ。サグラダ・ファミリア (聖家族教会)付近の地下鉄ホームで電車を待っていると、嬉しそうに買ったばかりの本を袋から出して眺めている大柄のスペイン人青年がやって来た。本はイナゾー・ニトベのBUSHIDOと武術の写真集。本に触れたりページを開く眼差しに何かほのぼのとした愛情や善良さを感じる。微笑ましく眺めていると、その彼が近づいて来て「日本人の方ですか。僕は武術の稽古をしているんですよ」と話しかけてくれた。おでこと腹を押さえて「日本の文化や気の集中法はすばらしい」と言っているのが分かる。二駅ほどの間、片言のスペイン語で話して握手をして別れた。小さな出会いの締めくくりに握手をしようと手を差し出してくれる。南部人の暖かさを感じた。

彼のように、ヨーロッパに来てから武術大好き人に何人も会った。「そうだ日本は武術の国だったんだ」合気道に居合道、柔道、柔術、空手、剣道、弓術、なぎなた。日本の良さを、いつも海外で再発見する。

武道の好きな欧州人たちは、みんなおもしろい。どこかで「つながっている」という安心感も感じる。彼らの時間は武術が渡欧した時代のままで止まっているようで、彼らを通して当時の日本人の奥ゆかしさや品位、モラルを学ぶ。友人のベルギー人の小父さん(黒帯)なんかは、自分を宮本武蔵か誰かと勘違いしている時がある。日本にさむらいがいなくなっても、武士道は世界で活き続けてる。

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武術の魅力は、ユニバーサルなもの。「武術に出会ってなかったら人を殺していたかもしれない。グレて施設や刑務所を出入りしていたかも」という人たちを知っている。彼らの発言は「凶暴」だが、心静かに笑う顔は温厚そのもので、みな専門職についている。

子供の時から家庭崩壊や虐待を経験したり、生活保護を受けても極端に貧しかったり。非行か犯罪くらいしか、他に大人になっていく方法が殆どないような環境にいたら・・・。少年・少女はどこに怒りを向けていいのか分からない。社会が許容する範囲でそんな憎悪を発散する場所も方法も、なかなか見つかりそうでない。

こんな憤怒のエネルギーに導線をつけ、発火させてくれるのが武術じゃない、かな。私にも覚えがあるが別に複雑な家庭でなくても、思春期でいること自体がかなり複雑だ。不思議な喪失感と、やすやすと大人にもなりたくないというドロドロとした矜持。自分の不安や怒りを抹殺してくれそうな、何か極限状態に憧れたりする。ワルイことや、何か「いびつなもの」が心にひびく。

今年はフィンランド南部の高校で銃乱射事件があり、実行犯の男子生徒が自殺した。春には米国バージニア工科大学で乱射があり32人が死亡した。同じく、犯人の男子学生は自殺した。

精神的な病気で苦しむ人なら、まず医師や専門家に相談する必要がある。「健康」な少年・少女なら、モラルは分かるはずだ。すぐにムカつくのは短気な馬鹿だし。1人で自殺するほどの勇気もないから、人を殺して巻き添えにして死のうとたくらむのは卑怯者だ。好奇心で試した薬物に逆に濫用されて、麻薬中毒者になるのはマヌケてる。自分の人生も他人の人生も、軽いジョークではない、からね。

思春期はみんな苦しい。怒りも一種のエネルギーなのだから、それを自分に一番あったやり方でリリースできる表現法を見つければいいのでしょう。だから、怒りの強い少年や少女には武術なんかいいかもしれない。日本の武道でも中国の少林拳や韓国の太極拳でも、インド武術、ブラジルのカポイエラなんかでもいい。まずは近所で尊敬できる立派な先生を見つけること。

武術は単なる身体的な訓育だけじゃない。武道の稽古は身体の働きを知り、その知識を応用することだから、最初は自分の弱さを痛感するだろうけど、次第に攻撃や防御の仕方、急所のツボを覚える。戦いの歴史は医学の進歩とも重なってるので、キズの癒し方や介抱の方法も学べるし、自分のエネルギーを最大に活用できるような呼吸法や集中法もわかるようになる。

でも武術で一番大事なことは、自分の内部や外部の変化に心を開き、風のそよぎや鳥の鳴き声にも敏感になること、隠れた詩情や真実が見えるようになること、揺れ動く状況に適応していくしなやかさを身につけること。ふらりと出かけた土地で武術をしている人に会えば、「仲間」に会ったような帰属感も感じるようになる。

黒帯で師範になれば、それがパスポートになって世界中でも教えられる。温故知新。武術はカッコイイよなあ。

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