アマルティア・センのメモワール

Front cover of Home in the World the latest book of Amartya Sen

今年9月初旬。フランクフルトの書店。

両手に本を抱えて、レジに向かう途中だった。目線をすこしあげたところで、アマルティア・センの新刊書が目に飛びこんできて、欣喜雀躍。「アッ」と声をあげた。

食べたことのない、美味しいスイーツのような味わいの良書は、すぐに読み終えるのはもったいなく、楽しみながら読了した。あるインド人の学者が「Fine book」と評していたが、端的にそうだと思う。新刊は笑いあり、涙あり。どっと笑える、ふきだす逸話も多い。

センは子供の頃の会話まで、鮮明に覚えているようだ。(妹の名はマンジュ。娘はアンタラ。ナンダナで、おじやおばの名前にカカやママをつけて呼んだり、名前を読むだけでも楽しい。親戚だけでも、かなりの人数が登場する)。

本のタイトルは、「ホーム・イン・ザ・ワールド」。米国のケンブリッジから英国のケンブリッジへ引越した後に、彼が受けたBBCのインタビューから第一章が始まる。「あなたの家はどこだとお考えですか?」アメリカも、英国も、インドも「家です」と答える彼に対して「家という概念はあなたにはないのですか?」「本当の家はどこですか?」とセンは問い返される。食べ物ならアサリ・パスタも、四川の鴨料理も、カレー味の魚料理も全部好き。なぜ単一にこだわり、複数のアイデンティティや好みを良しとしないのですかと、センは切りかえす。

現にセンは経済学者で、哲学者で、フェミニストで、プラティチ財団の設立者でもある。英語はベンガル語、サンスクリット語につぐ彼の第三ヶ国語である。結婚は3回している。どこにも家があり家族がいて友達がいる。「世界がホームだ」という彼の人生を、書名があらわしている。

センは1933年インド生まれ。アマルティア (サンスクリット語で不死という意味) という浮世離れした名前の名づけ親は、詩人タゴールだった。そのノーベル賞受賞者の作品を、センの母は舞台で踊り演じていた。

アマルティアは7歳から17歳まで、タゴールが創った自由な学園で学んだ。タゴール校の前には、名門セント・グレゴリーズにしばらく通っていた。後年、彼が母校に招待された時に、クラスで33番目 (37人学級) という成績表が残されていて「わが校から転校された後に」貪欲に学ばれたのですね、という校長先生のフォローに救われたそうだ。

テストのないサンティニケタンは、好奇心を高める型破りな教育方法で知られる。アマルティアは歌と運動が不得意で、大人たちにつぎつぎ質問をあびせかける少年だった。その青空教室で物事を額面通りに受け取らず、精査しながら考え、折衷的で人道的な彼が形成されていく。その頃から夜間学校で、文盲の子どもたちに無料で読み書きを教えていた。

西ベンガルの田舎に引っ越したのは、センの祖父が詩聖タゴールの親友でもあり、日本軍によるインド都市部の爆撃を恐れた両親が、彼を母方の祖父母宅に疎開させるためでもあった。そこでアマルティアは、おおよそ300万人の餓死者をだしたベンガル大飢饉を目撃することになる。

食べ物が全くないわけでもないのに、なぜ皆、困窮しているのだろう?

すさまじい飢饉が起きたのは、進撃する日本軍に追われたイギリス軍が撤退しているときだった。軍退却に関する情報が自由に流れることで、士気が下がることを恐れた大英帝国は、新聞を検閲し、出版の自由や情報の流れを厳しく制限した。長い間、飢餓のニュースは報道されなかった 。

セン一家も中流家庭(中の下)で、決して裕福ではない。煙草の空き缶をもらった少年は、その小さな缶にお米をいれ、訪れた一家族に一杯ずつあげた。77年経った今も(現在78年目)、餓えに苦しむ人々の声が、耳から離れないとアマルティアは述懐している 。

またその頃、ヒンズー教徒とイスラム教徒の激しい抗争もあった。たまたま学休中で、両親の元に帰っていたセン宅 (大学構内) に、背をナイフで刺された日雇い労働者 (イスラム教徒) が大量出血をしながら逃げ込んでくる。アマルティアは急いで両親をよび、その人に水をあげて話しかける。父親がその男性を病院まで連れていくが、まもなく亡くなってしまう。その当時の衝撃が、後々のセンの学究テーマとなる。まともなデモクラシーと出版・表現の自由がある社会では、飢饉のような大惨事は起きないという学説へとつながり、彼のノーベル経済学賞へ至る。彼のDevelopment という概念は、現在も様々な国際団体や政府で採用されている。(ジャーナリストの皆さん、彼の「自由」「ケイパビリティ」理論ご存知ですか?)

当時、親戚の多くが共産党員で、反英闘争に参加していた。無実にもかかわらず、犯罪防止の戒めで裁判も受けずに投獄されていた。当時の拘置所はインテリに会うには、うってつけの場所だったようだ。おばあちゃんがアマルティアを連れて、勾留されている息子(彼のおじさん)を保釈してもらうよう頼みに行く日もあった。

18歳になった11月、彼は口内のしこりに気づく。2人の医師に相談に行くが、口内炎ですよと取り合おうともしない。だが図書館で調べて、自分が口腔癌であることを確信する。知り合いの医師によると、生存率は15%だった。それ以来、彼の生涯には健康不安がついて回る。「あの天然の陽気さはどうしたものだろう」と私は常々感じていたが、教授は案外心配性で、努めて明るくふるまっているのだと分かる。センが日本の原爆や放射線治療に詳しいは、大病の高徳のようだ。

闘病は続くが、治療を終えたアマルティアに父親が英国留学をすすめる。何か先の楽しみがあるように、という親心だった。一校にしぼった志望校ケンブリッジから不合格通知がくるが、しばらくして補欠入学の通知(別のインド人学生がやめたので)が届く。早速父親と航空券予約に行くがあまりに高額で、結局は船旅のスエズ運河経由でイギリスへと向かう。

最初の下宿先は、大学からやや離れていた。大家さんがある心配を口にする。「熱湯のお風呂に入ったりすると、あなたの肌の色がバスタブにうつるんじゃないでしょうか」と彼女が尋ねる。それはないです。大丈夫です、とセンは科学的に説きふせる。そのうちアマルティアのチャームに、大家さんは魅了されたのだろう。「ミルクを飲んで」健康になりなさいと、痩せぎすの彼に全脂ミルクを毎朝運んだくれたそうだ。彼が下宿を出るころには、その女性は変貌をとげ、人権運動家ほどの言動をとったという。

面白い逸話はまだまだ続く。88歳の現在も、とりわけ存命中の学者のなかではセンはロックスターのような存在だ。彼は超人的だが、そう生まれついたのではない。友人や教授たちとコーヒー・ハウスで延々と議論し、恐れず自由に考え、批判し、そして膨大な読書量がセンを造形したのだと思う。センの本には手抜きがない。最後まで読み応えがあるが、第一章と第二章が特に私は好きだ。第五章のはじまりも面白い。

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