アマルティア・セン教授が、障害者について話した講演録がある。それを日本語に訳する許可をいただいた。この講演は2004年とやや古いものであるが、彼が明らかにした問題も解決法も時をへて今なお新しい。
「正義論」というと、きれいごと、青臭い話、独善、あるいは気おくれなどのイメージを持つ人がいるかもしれない。嘘、変節、詭弁、論点ずらし、番狂わせ、詐術・・・・と空論のテクニックでやりこめるような論客がもてはやされる昨今の日本では、正義について語ること自体、空洞化してしまっている感は否めない。
そんなしらけ感を持つ人は、ぜひセンの著物を手にとってほしい。その正義というわかりにくいテーマをわかりやすい言葉で争点化し、彼が縷々と語るほてりを感じてほしい。そして論議をかさねた正義の哲学が、私たちの日常生活につながる政策や法律のもとになることを忘れずにいてほしい。
一般的に「正義」は理非曲直をいうが、アマルティア・センの正義論では分配の公平さや平等に関して論じられることが多い。正義という概念は、国のあり方にも行方にも大いに関係する。
日本では、年頭から「成長」という言葉が紙面をにぎわしているようだが (私は欧州に在住)。国がゆたかかどうかを経済効率性だけで判断するのは浅慮だ、とセンはいう。だからこそ彼は、人を基本にして考えたケイパビリティ・アプローチを提唱する。
たとえば、ある人が野宿をする。定住するお金はあるけども、そういう冒険生活が好きで野外で生活するのが(できるのが)「ケイパビリティ」のある人である。その人のケイパビリティは、嫌になれば野宿生活をやめ、職や宿や定住地を確保する自由度があることで成り立つ。やむえず真冬でもネットカフェ難民やホームレスとして路上・耐乏生活を強いられる人は、「ケイパビリティが欠如」しているのである。
このアプローチは、障害にも適用される。自転車は移動するための道具であるが、どんな(キャノンデールのような高価な)自転車を持っていたとしても(それを大いに気に入り満足していたとしても)、その所有者が重度の障害者であれば、移動という目的を果たすことはできない。障害者は所得という手段確保のほかに、それを望ましい人生に具現するだけでも二重・三重のハンディを背負うことになる。
したがって、人が自由にゆたかに幸せに生きているか否かを判断するには、その単なる手段である所得、生活の満足度、基本財だけを見ても分からないと、セン教授は論じている。
主体的選択としてのケイパビリティは、個々のエージェンシーとも深くつながっている。たくさん/いくつかある選択肢から比較し、自分にとって最も/かなり良いものを探すという最適択のような暮らし方を選べることを、ケイパビリティがあるといえる。このアプローチでは、生きるうえで「自由に選択できない不自由さ」を「貧困」という。自分が望む暮らしや目的が達成できないという意味で、貧しいのである。むろん、他者に害をおよぼすことを、「ケイパビリティ」や自由とはみなさない。日本は、ゆたかだろうか?
センが講演の最後に引用するアルフレッド・テニスンの詩に記されているように、正義など真善美を示す哲学は、それを探求し提唱する人たちによって(あるいは「正義」を作為し売りとばそうとする人たちによって)往々にしてゆがめられる。だからこそ善の本質を冷静にみつめ心にとめ、信じささえ続けなければならない。ことに善はゆらぎ、とことん試される目にあうであろうから。そういう意味のこもった詩をひいて、センは講演を結んでいる。
総じてセンの著物は読みやすい。簡潔なことばで、彼が明晰に考えることが記されている。清澄なおだやかさが伏流していて、「正義」や「障害」というテーマを得て、水際だった誠実さが内から輝きだす。
もし人工的で稚拙な感じがして読みづらいとしたら、それは原綴の英語と日本語の文法構造の違いによるところもあるし、私の拙訳のせいでもある。改良点があれば、ぜひご教示いただきたい。
障害者や生活保護受給者をバッシングする論客や、人が幸福に生きる自由を「自分勝手」や「わがまま」に置きかえたりする手法や、自己責任論のネオリベ派の浅慮を、やんわり笑い飛ばすほどに、日本でケイパビリティ・アプローチの理解が進むことを願っている。この解説文のほかに、文中の[]内、図、写真は、私の補足である。
世界銀行 2004 ― アマルティア・セン教授の基調講演
「障害と正義」
1
障害と包摂をめぐるきわめて重要性のあるテーマの会議に参加することを、この上なく名誉なことだと思っております。ジェームズ・ウォルフェンソン(James Wolfensohn)の優しいことばにも、大いに感謝いたしております。ジムほど私が賞嘆を覚える人は、世界にあまりいないのも同然で、本会議で彼と論じあうのも素晴らしいことです。そして私からも「バースデーボーイ」に、心からのお祝いを申しあげたいと思います。
身体あるいは精神障害を持つ人々は、世界で最も恵まれないだけでなく、度々はなはだ軽んじられた人たちでもあります。今日は実践に徹した緊要な課題に関する会議で、障害者に対する誤りをただす方策や手段について講じる集まりなのですが。私は主に理論について、とりわけ正義論における障害者への待遇について、焦点をしぼりたいと思います。大切なのは、障害への取りくみと障害者への正義の要求を解することが、なぜ一般倫理、特に正義論の根幹にあるべきかを認識することです。またなぜこのように大切な問題を、正義論の主要学派は軽んじる傾向にあるのかを知るのも、有用であるかと思います。そして、この傾向がために実践的な施策が無対策となり、障害者に対する社会的義務という責任ある見地をとれずに蹉跌をきたし、そうした不十分感を抑えることさえ助長しているのです。よって、この講演の一部は(犯人さがしの)なぞ解き、哲学的な推理探偵の形をとっていきます。
ある意味、障害者の苦境とそれに向きあう必要性ほど、はっきりしたものはありません。2500年前、若き日のゴータマ、後のブッダが悟りをもとめヒマラヤ山脈のふもとにある王宮を抜けでた時、彼はとりわけ死(死体が火葬場に運ばれ)、病(病気にひどく苦しんでいる人を見て)、障害(老いて身体が不自由になる)を目のあたりにし、心を乱します。人間が生きる上での窮乏と逆境に対するゴータマ・ブッダの心痛は、時代を超え思いやりのある人類のイメージを想起するのに役立ち、今日も私たちの胸に訴えかけてきます。
2
社会理論でとりわけ正義論では、「情報基底」とよべる基点を選ばなければなりません。つまり社会としての良否 [社会のよしあし]、あるいは正義にかなうか否かを判断するにあたり、どの特質を見ていくかということです。はたして人が健やかで恵まれ幸せであるかどうかを、どう評価するのかが特に重要なのです。社会評価と正義をめぐり、例として3つの著名な学説について考えてみましょう。
第二のアプローチは、経済学の実践的演習にはよくあるもので(厚生経済学の学説でも)、人の収入と富とで評価するものです。これは満足度にもとづく功利主義とひとしく富に則ったアプローチで、かたや総所得かたや所得分配・分布といったデータに焦点をあてています。
倫理と正義に立脚したこれらいずれの主な理論も、障害者への公平性に関して肝心な注意をはらえきれてないことが、見てとれます。まず第二の富に着目するアプローチから始めますと。経済学者がもっぱら所得配分に焦点をあてるアプローチで、メディアや社会的な議論でもよく取りざたされますが。このアプローチの基本的な問題を、2300年前にアリストテレスは著書「ニコマコス倫理学(Nicomachean Ethics)」に、言明しています。彼はこう述べています。「富は、明らかにわれわれが求めているものではない。それは(当のものでなく)他のもののために役立つものでしか、他ならない」
障害において非常に重要なのは、「収入のハンディキャップ」と「コンバージョンのハンディキャップ」とよばれる、2つのタイプのハンディを区別することです。障害者が仕事を得て、それを確保していくのは困難ですし、ひいてはその就労の対価も低いかもしれません。この収入面のハンディキャップは、富に注目する理論にも影響がおよびます。収入と富の面からすると、障害者はかなり不利なのですから。しかし、これは問題のほんの一部にすぎません。身体障害のある人が健常者と同じようなことをするには、さらなる収入を要します。事故や病気によって身体に障害を負った人が、苦もなく動いたり、あるいは動けるようになるだけでも、さまざまな支援または補助器具、あるいは双方とも必要になります。障害者がお金を望ましい暮らし向きに換えるうえで被る負担を、コンバージョン(変換)のハンディといいます。収入を得るハンディだけに注目しても十分でないのは、このコンバージョンのハンディも障害者はよぎなくされるからです。
この問題は所得にもとづいた貧困観の限界を知るうえで、要となります。貧困は、人が持ちあわせている基本的なケイパビリティの不足と見なせます。それは確かに収入の低さとも結びついていますが、それだけではありません。所得レベルが同じならば、障害のある人ははるかに限られた事しかできないかもしれませんし、またその人自ら生きる価値があるに足ると考える人生をおくるためのケイパビリティも、足りないかもしれません。障害がために収入が得がたくなるのに加え、収入を望ましい人生を生きるという自由に変換するのも難しいということです。
<収入> ----------を変える----------> <人生を謳歌する自由>
近年ケンブリッジ大学で光彩をはなつ博士論文として受理された、コンバージョンのハンディキャップに英国の貧困率の影響を重ねみたWiebke Kuklysの調査結果をとりあげながら、見ていきましょう。Kuklysは全人口所得の平均値の60%に満たない割合を貧困の基準値とし、17.9 %の人たちが貧困線を下まわる収入しか得られない家族と生活を続けているという事実を見出しています。障害者のいる家族に目を移してみますと、貧困線以下にある人々の割合は23.1です。この約5 %のギャップは、障害による所得面でのハンディと障害者を介護しなければならないことに、大きく影響されていることを示しています。さらにコンバージョンのハンディを考慮し、障害を改善するために必要な多めの収入も含めて算出すると、障害者のいる貧困家族の割合は47.4 %にはね上がります。人口全体の貧困線以下の人口割合(17.9 %)に比べて、20 %近くのギャップとなります。別の方法で比べますと、この20 %の障害者をメンバーとする貧困家族のうち、約¼ が 収入ハンディキャップと、¾ がコンバージョンのハンディキャップに帰するものなのです。
そもそも良い暮らしをしているかどうかは、ある程度、個人の所得からではなく、教育や公共施設など社会的な取り決め[や受け入れ態勢]によるものです。障害児の多くは、ろう者であろうと車いす障害者であろうと、多くの途上国では障害者用設備が不備なために、事実上、初等教育への受け入れははばまれています。世界で学校に通っていない一億人以上の子供のうち、4000万人ほどが何らかの障害をもっていると推定されます。ほとんどの学校、特に開発途上国では、身体障害を持つ子ども用のアクセスを考量せずに建設されており、教員もおおむね学習障害を含む様々な障害を持つ子供たちに特殊教育ができるようには養成されていません。ゆえにコンバージョンのハンディキャップというのは、所得・学資を良い暮らし向きに変えるだけでなく、社会施設を利用可能な機会として変えることにもおよんでいるのです。
3
ここでロールズの正義論にうつりたいと思います。基本財を中心に位置づけるロールズ論では、人が恵まれた暮らしをしているかどうかを、人それぞれ各自の目的達成のための機会の存否で見ていきます。個人ごとに異なる「良き/善きものの概念」の追求を、ロールズは目的と見なしました。このアプローチでは、異なる人たちが持つ2つのタイプのバリエーションに注目する必要があります。第一には、人それぞれが持つ目的は、めいめいの「良き/善きものの概念」にも結びつくので、人により異なります。これに、ロールズは特に注目しているわけです。彼は基本財というものはおおむね、どんな人の千差万別の目的にも応じるだけの、多様性を備えていると見なしています。また、特に高価なものを有することは、他のより手ごろなものを要する人たちよりも、より多く収入を有する権限を与えないと論じています。
第二のバリエーションで私が主に関心を持っているのは、この点で、つまり障害者は他の人と同程度のケイパビリティを達成するうえで、資源と基本財がより多く要るかもしれないということです。たとえ、他の人たちと似たような「良きもの・良き人生」を思いえがいているとしてもです。身体あるいは精神障害を持つ人々が、健常者がたやすくできること(歩いたり、話したり、見たり等)をしようとすると、さらに負担がかかることになります。また、より多く時間や労力をついやしたとしても、健常者と互角の行動あるいは成果を達せられないかもしれません。収入やその他の資源を望ましい人生に変換する自由度という文脈で、前に申しあげたことです。似たような批判は、基本財に注目するロールズ論の限界にもあてはめることができるでしょう。ロールズがリストとしてあげた基本財は、収入や富などはるかに超えるものですが、コンバージョンのハンディキャップはそのリストにまるまるあてはまるのです。基本財の保有を個々の暮らしぶりの高低を示す指標とし、分配の正義を判断するにあたり、ここが公平性に反するのです。
実際、所得から基本財へと情報対象を広げるだけでは、資源とケイパビリティの相関性における、いかなるバリエーションに応じるには不十分です。身体あるいは精神に障害を持つ人は、「権利、自由と機会、所得と富、自尊心の社会的な基盤」など同程度の基本財があったとしても、はるかに好ましくない境涯にまだおかれているかもしれないのです。基本的な問題は、所得と同じく、基本財が個別の特性とは無関係に定義されているために生じるのです。人の「外側」に関する資産や資源である基本財は、人が有する財や資源で何ができるのかを捉えはしません。たまたまその隣にいる健常者よりも、もし障害者のほうが多くの基本財を持ちあわせていたとして、しかるに有利であると見なされるならば、その人は比べられた人よりもさらに制限された苦しい人生を(まさに障害のために)歩む羽目になるのです。
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では功利主義はどうでしょうか?この正義へのアプローチでの功利主義は人の快楽や欲望の達成に着目するので、所得や基本財のように、外的な物にのみ注目していると責めることはできません。それは収入や基本財により優位性を決める手法としては、人間の生活のかやの外に置かれているわけではありません。
功利主義の問題は別のところにあるのです。このアプローチは精神的な特徴を前景化するので、その特質が確認されれば恵まれていると見なすことです。これは快楽や欲望は状況に応じて変質し、特に人は逆境に順応するという事実を見落としています。身体障害をもった人のことを、考えてみてください。独自のイニシアティブをあみ出しささやかな情けから喜びを感じることで、幸せな生活をおくっている人がいるとします。功利つまり幸福度や快楽の尺度では、この障害者は本人の心構えや努力のおかげで、特に恵まれない人には見えないでしょう。しかし、その人がいくら進取の気性に富み明るい心持ちの人であっても、障害というハンディキャップを抱え、ケイパビリティがおおむね低いことを、消しさることはできないのです。たとえば、肢体の不自由な人が、その失能力をいくら明るくうけとり、そのハンディをクリエイティブに変えようともがいても、障害は残ったままです。いくら精神的喜びや幸福のレベルが高くても、社会的支援を求める障害者の言い分は、重要な失能力がある限りなくならないのです。
これまで特段の計らいで、ケイパビリティ・アプローチと経済や社会開発にまでおよぶ広範な影響について、私はここで6回講演してきました。(それは世銀総裁ウォルフェンソンの招待による講演としての形式をとり、その後「自由と経済開発」という本として刊行されました)。ですので、ケイパビリティ・アプローチの戦略やその結果については、差しひかえさせていただきます。が主題としましては、われわれが本質的な自由に関心を持つなら、それにひきあうケイパビリティも含めて人々が実際に自由を有しているかどうかに、目を向けなければならないということです。障害に対する社会的関心は、所得、基本財、快楽など比較的、人にそらぞらしい視点をすえることで、埋もれたり薄れさせたりすることはできません。
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世界における障害の全般的な問題は、実に大きなものです。世界銀行のデータによりますと、6億人以上の人々、つまり世界全人口の10人に1人が、なんらかの深刻な障害をもって暮らしています。開発途上国では4億人以上の障害者が、暮らしています。しかも、そのような国々では、障害者は収入の面で最貧層であることが多く、彼らの収入の必要性は健常者よりももっと差し迫っています。というのも、ハンディキャップを軽減し、まともな生活をやりくりせんがための負担や支援が必要になるからです。生計をたてる能力の障害(収入のハンディキャップ)は、コンバージョンのハンディキャップ(つまり収入と財源を好ましい生活に切り替えるむずかしさ)により、さらに増幅されるからです。
障害の道徳的、政治的要請を理解するのが重要なのは、人類が広く害うためだけではありません。障害ゆえに副次的に発生する痛ましき結果は、社会的支援や想像力に富んだ後おしで、乗り越えられるのです。障害にあたる政策は、ハンディキャップの影響を改善したり、障害発症をふせぐ手だてなど広い領域におよびます。障害はおおよそ予防可能であることを覚知するのが特に重要で、障害の負担を軽減するだけでなく、発症率そのものを減らすために多くのことができうるのです。
現に障害をかかえた6億人のうち、ある程度の割合の人たちだけが、不運にも妊娠時あるいは出産時に障害者になってしまいました。たとえば、母親の栄養不良や発育期の栄養失調は、小児の病気や健康障害をひき起こしやすくなります。感染症にかかったり、安全で衛生的な水が不足しているがために、失明してしまうこともあります。ポリオや麻疹またはエイズの影響、ならびに交通事故や仕事場でのケガによって、他の障害を負いかねません。さらなる問題は世界の紛争地域に散らばっている地雷のために、女性や男性、特に子供たちが死に至っていることです。障害に対する社会的援護は予防だけでなく、管理や緩和も含まれなくてはなりません。
賢明で人道的な後押しによって達成できることを考えるならば、見てみないふりをする無慈悲な社会が、障害者の重荷を引きうけ分けもとうとしないことは、すざましいことです。この座視する構えは、概念的な混同に重要な一因があります。既存の正義論が、障害のハンディキャップを満足いくほどに理解するには不十分だとしても。伝統的なアプローチとして定常化した考え方は哲学における論議にも影響をおよぼすだけでなく、このきわめて重要なテーマにしても限りのある程度にしか公的論争も行えません。たとえば、所得配分だけの公平性にねらいを定めるならば、障害の窮状をくみ取り、障害による道徳的・政治的影響の厄介さを理解しにくくなります。収入をもとにした貧困観を繰りかえしもちいれば(1日の収入が1ドル未満で暮らしている人たちの数など)、所得のハンディに、コンバージョンのハンディキャップを加えあわせた社会的貧困の厳しさを顧みないことになります。同じく、最大多数の最大幸福などのレトリックも、障害者の本当の障りから、どれだけ精神的に逆境に対応できるか(本質的でないもの)に注意をそらしてしまいます。
やや異なる文脈ですが、われわれの自発的かつ誠実な憂慮を高度な状態へとかえる方法について、アルフレッド・テニスンが警告を発しています。そしてわれわれがなぜ絶え間なく闘わなければならないかを、彼は述べています。
善について、よくよく考えよ
それをはっきりと定義せよ
真実を追求せんとする神々しく美しき哲学を、恐れんがために
それはその辺際を超えて
道徳的に非難されるべき、すげ替えた目的を達せんがために、哲学を差しだしたる
地獄の沙汰までも
概念を混同して障害者のニーズをないがしろにすることに、私たちは大いに抵抗しなければなりません。よって、ここにいたって彼らのニーズを明らかにすること、そしてそれにコミットメントする必要があるのです。
溝畑さちえ訳